子どもの笑いは変わったのか

みのもんたが朝の番組で、いじめ問題に関して関西系のお笑いタレントを批判していたのが話題になっていました。
こういう発言をすると決まって「何でもかんでもテレビのせいにするな」「子供はそこまでバカじゃない」という反論が返ってきます。
「タレントの○○がテレビで人を殴っていたから、真似をしてやった」と言う子供は居ないでしょう。居たとしたら、本当のバカです。
問題は「弱い立場の者が困っている様子を笑う」というのが、笑いとして成立している事が問題なのです。
最近のお笑い番組はつまらないを通り越して不愉快なので見ていないのですが、とある雑誌で、若手芸人をプールの飛び込み台に立たせ、飛び込むまでの怖がっている様子が見せ場の番組があると知りました。
これはいじめでしかないでしょう。
勿論番組としての仕込みなのでしょうが、リアルな芸能界の上下関係が透けて見えるし、こういうのを「笑い」として受け止められている風潮に恐ろしいものを感じました。
「子どもの笑いは変わったのか−ビートたけしの挑戦−」(村瀬学岩波書店)では、「笑い」の基本は「崩しと戻し」であるという前提で、年代別にテレビ番組、漫画の笑いを分析しています。

テレビ番組に絞って要約すれば、
60年代―旧体制に対する抵抗(「とんま天狗」「てなもんや三度笠」「シャボン玉ホリデー」)
70年代―社会的秩序への崩壊(ドリフターズ萩本欽一
80年代―パロディ(ビートたけし明石家さんま
90年代―リアリティ(とんねるずダウンタウン
といったところでしょうか。
70年代の項にはドリフターズについて詳しく書かれています。
同じコミックバンド出身で先輩格のクレージーキャッツに比べて、ドリフターズは田舎臭い部分があり、大人の雰囲気があったクレージーキャッツと比べて子供に親近感を持たせる集団でもありました。
ドリフの笑いはリーダーであるいかりや長介からの羽目外しではありますが、秩序を維持する人間関係(上下関係、支持関係)までは壊していません。
流行した「カラスの勝手」も上手く子供の視点で、公の干渉からに対する個の勝手を表現していると誉めています。
志村けん個人に対しても、その才能を評価し、ドリフ時代の「定型」と「はずし」と踏襲しながら、大上段から構えた社会批判の笑いにに走らず、「庶民の笑い」に徹していると書いています。
確かにドリフの笑いというのは、ドロ臭く庶民的です。そして毎回反撃を受けながらも長さんはリーダーという位置を崩さず、またそれがあるからこそ「威勢のいい風呂屋」は笑えるのです。
著者は、たけし軍団とたけしは上下関係ではなく、「イソギンチャクとヤドカリ」のような共生の関係とあると言います。
過激なパフォーマンスもあくまでも「芸」として見せるために「軍団」というグループを作ったというのです。
しかし、たけし軍団的なノリを真似て、それにドッキリカメラの要素を加えた葬式ごっこによるいじめが起こったのでした。
当時、葬式ごっこの色紙に教師もコメントを書いた事が問題になりましたが、遊び、ジョーク程度に受け止めていなかったそうです。
いじめられて少年も本気で起こったり抵抗などせず、軽く受け流していたようです。
事件が起きた1986年は、集団の中でギャグや悪ふざけに乗っていかなければいけないような風潮がありました。
弱い者をいじめて笑いを取るというのは、80年代の「オレたちひょうきん族」から始まったかのように思われがちですが、70年代から既にありました。
この本では取り上げられなかった「金曜10時!うわさのチャンネル!!」です。
せんだみつおは、いじめられ芸人、自虐ギャグの元祖ではないかと思います。
私も子供の頃見ていましたが、和田アキ子にいたぶられるせんだみつおの姿は痛々しくて、笑うどころか子供心に気の毒に思えました。
それでもまだ、和田アキ子に大きな犬をけしかけたりする反撃の余地はありました。
この本は1996年の出版なので、考察は90年代で止まっています。
またいじめ問題がクローズアップされた今、2000年代の笑いはどう分析されるのでしょうか。